なるほどね。PART2

誰にともなく、近況報告など。

家電について

電器屋の家電コーナーが大好きだ。

別に欲しいものが無くてもつい立ち寄ってしまう程度に好きだ。

 

ものすごく高い家電を見て「誰が買うんだよこんなん」と笑うのが楽しい。

デカい冷蔵庫とか洗濯機を見て「家に置いたら…」と想像するのが楽しい。

洗濯機のデモを見ているのが楽しい。

ウソみたいに大きなテレビを見て「でかい!きれい!」とはしゃぐのが楽しい。

除湿機みたいに地味な家電を眺めるのが楽しい。

 

引っ越したら、絶対洗濯機はインバータ式の静かなやつにしよう。

ついでに冷蔵庫も静音のやつにしよう。

そして43Vくらいのデカいテレビを置くんだ。

掃除機もダイソンにしちゃうんだ。

 

家電って、ワクワクだ。

アニメについて

時折アニメを見る。

最近は、すのはら荘の管理人さんとか、

ヤマノススメ サードシーズンとか、

からかい上手の高木さんとか。

 

僕の好きなアニメには、大抵可愛い女の子が出てくる。

もし女の子たちが可愛くなかったらどうなるのか、たまに想像することがある。

からかい上手の高木さんの高木さんが可愛くなかったら・・・。

それは物語として果たして成立するのだろうか。

 

結局のところ、可愛いというのは全てに優先するものなんだろうと思う。

どんな綺麗事を言おうとも、可愛さは支配的、圧倒的な属性だ。

「かわいいは、正義。」とはまさに至言だ。

ヒロインが可愛ければなんでも一つの物語になるんじゃないかとすら思う。

これは、イケメンにも言えることだろう。

「ただし、イケメンに限る」なのである。

 

そう考えると、美男美女というのはいつだって物語の主人公だ。

僕みたいなのは、せいぜい同じクラスの寄り集まったオタクCといった感じだ。

でも、モブにはモブの人生があるのだ。

そう考えると、いつも背景のように描かれるクラスメイトにも情が湧く。

 

僕の人生は、きっと物語としては三流もいいところだろう。

しかし、そんなしょうもない物語にだって起承転結があるのだ。

それはアニメのように鮮烈でも印象的でもないのだが。

また、それも人生なのだ。

 

尽きせぬ憧憬の念を込めて、僕はまたアニメを見る。

 

 

 

ところで・・・すのはら荘の管理人さん、めっちゃ管理されたくないですか?

ヤバいでしょ、マジで。

花について

ちょうどこの時期、道北ではアジサイの花が見頃だ。

そば畑には一面に白い花が咲いていて、香りはともかく実に見事だ。

 

花の名前にはあまり詳しくないが、年を経るごとに花を見るのが好きになった。

父親は花が好きで、休みのたびに家の庭で飽きもせず花の世話をしていた。

当時はそれがどうにも理解できなかったのだが、最近はわかる気がする。

 

そうは言っても、アパート暮らしでは庭いじりをするわけにもいかない。

そんなわけで、せめて見るだけでもと公園でやっている花の展示に足を運ぶ。

温室のある公園では少し時期外れの花が見られて面白い。

なにしろ、外が枯れ木ばかりの時期に桜を見たりできるのだ。

 

ちなみに、僕の一番好きな花はキンモクセイの花だ。

昔仙台に住んでいた頃、秋になるたびにキンモクセイの香りを楽しみにしていた。

まだ花を楽しむという習慣がそれほど無かった頃の、数少ない花にまつわる思い出だ。

今思えば、あの満開になった時のオレンジに輝くような様は、実にきれいだった。

そのうち、ポプリでも買ってみようか。

夏について

住んでいる場所が場所なので、夏という季節の影が薄い。

 

本州では毎日猛暑だとか、危険な暑さだとか言われているのだが。

確かに少し蒸し暑いとは思うが、暑さをそれほど意識することなく過ごしている。

普段あまり外出しないこともあるのだろう。

そして気づくと8月がやってきて、やがてお盆が過ぎて涼しくなる。

毎年そんな風に、なんとなく夏が過ぎていく。

 

しかし個人的に、夏というのは実に絵になる季節だと思う。

どこを見ても一面真っ白な冬に比べれば、どこを見ても色彩にあふれている。

虫もカエルもあちこちで鳴いて、花火があったり祭りがあったり。

あちこち歩いて回るには辛い季節なのに、きっと一番楽しい季節だ。

 

今日は少し、外に出て歩いてみよう。

SNSについて

Twitterから距離を取ってしばらく経った。

今でも時折、40人少々のTLを追ったりしている。

1000人単位のツイートを追っていたなんて、今では信じられない話だ。

 

インターネット以外でも、人は色々なコミュニティに属する。

それは学校だったり、サークルだったり、ご近所さんだったり様々だろう。

しかし、それらコミュニティで自らが受け入れられる保証はない。

コミュニティというものはたいてい、「異物」に反応して結束しようとする。

何が、あるいは誰が「異物」となるかは実に恣意的に決められる。

いつ、自分が「異物」になるかはわからない。

しかも、コミュニティには自然と上下関係ができる。

有力者に疎まれれば最後、自分の居場所は無くなってしまう。

現実の人間関係に疲れてしまうというのは、主にこのような要因があるのではないか。

 

インターネット上のコミュニティにも色々ある。

使用するサービスの違いだけでなく、使用者の層にもよる。

それはつながりの濃淡だったり、上下構造の強弱だったり色々だ。

しかし実のところ、インターネット上のコミュニティは結局リアルと何も変わらない。

いつ、自分が「異物」になるかはわからない。

いつ、自分がコミュニティ内の有力な者に疎まれるかわからない。

構成している要素が同じ人間である以上、根本は何も変わらない。

 

そんな中で、人間の行動指針はあっけなくコミュニティによって支配される。

コミュニティに受け入れられるように。

できる限り上位層に位置するように。

個人で存在する場合にはありえない行動を、人間は意外と簡単に起こすものだ。

「承認欲求」とか「マウントを取る」とかの言葉が端的に表している。

 

人間というのは、「人と人の間に在る者」であり、動物的分類の「ヒト」とは異なる。

人間である以上、コミュニティに属することは避けられない。

ならば、どうすればコミュニティ至上主義的な行動原理から逃れられるのか。

答えは単純で、リスク分散である。

つまり、できる限り多数のコミュニティに同時参加するのである。

どこかで爪弾きにされても、まだ他に居場所が残されている。

それは必ず精神的、行動的な安定につながる。

 

幸いにも、インターネットによって参加できるコミュニティの幅は広がった。

一人でも多くの人を孤立させないことは、社会全体としても重要な課題と思う。

なにしろ、孤立したヒトほど恐ろしいものはない。

それは、知能を持ったケモノに相違ないものだからだ。

 

誰もがいつでも誰かの肯定を、共感を、「いいね!」をもらえる。

どこかのコミュニティで失敗しても、セーフティーネットとして機能する。

SNSは、そのためのツールであるべきだ。

カフェインについて

僕がカフェイン不耐症になったのは、20歳を超えてからのことだった。

 

気づいたきっかけは、風邪薬を飲んだ時にやたらハイテンションになることだった。

薬が切れると反動が大きく、風邪薬の成分に何か合わないものがあるようだった。

その後、コーヒーを飲んでも同じ状態になることがわかり、薬の成分を見てみると、

「無水カフェイン」という記載があった。

コーラやお茶でも同様のことが起こった。

そうして、一切のカフェインを含むものを断つようになって6年くらいが経った。

 

いまや、コーヒーもお茶も、ノンカフェインのものが出回るようになった。

いわゆる「デカフェ」である。

ネスカフェデカフェ、スタバもデカフェドトールデカフェ

最近は生茶デカフェもリニューアルして一層美味しくなったようである。

もともとは妊婦さん向けのもののようだが、僕のような体質の人間にもありがたい。

 

ある人にとっては良いものであっても、別な人にとっては毒になることもある。

それはカフェインでも、酒でも、薬品でも、思想でも、同じことだろう。

だからこそ、どのようなものであっても、押し付けることは避けたいものだ。