なるほどね。PART2

誰にともなく、近況報告など。

SNSについて

Twitterから距離を取ってしばらく経った。

今でも時折、40人少々のTLを追ったりしている。

1000人単位のツイートを追っていたなんて、今では信じられない話だ。

 

インターネット以外でも、人は色々なコミュニティに属する。

それは学校だったり、サークルだったり、ご近所さんだったり様々だろう。

しかし、それらコミュニティで自らが受け入れられる保証はない。

コミュニティというものはたいてい、「異物」に反応して結束しようとする。

何が、あるいは誰が「異物」となるかは実に恣意的に決められる。

いつ、自分が「異物」になるかはわからない。

しかも、コミュニティには自然と上下関係ができる。

有力者に疎まれれば最後、自分の居場所は無くなってしまう。

現実の人間関係に疲れてしまうというのは、主にこのような要因があるのではないか。

 

インターネット上のコミュニティにも色々ある。

使用するサービスの違いだけでなく、使用者の層にもよる。

それはつながりの濃淡だったり、上下構造の強弱だったり色々だ。

しかし実のところ、インターネット上のコミュニティは結局リアルと何も変わらない。

いつ、自分が「異物」になるかはわからない。

いつ、自分がコミュニティ内の有力な者に疎まれるかわからない。

構成している要素が同じ人間である以上、根本は何も変わらない。

 

そんな中で、人間の行動指針はあっけなくコミュニティによって支配される。

コミュニティに受け入れられるように。

できる限り上位層に位置するように。

個人で存在する場合にはありえない行動を、人間は意外と簡単に起こすものだ。

「承認欲求」とか「マウントを取る」とかの言葉が端的に表している。

 

人間というのは、「人と人の間に在る者」であり、動物的分類の「ヒト」とは異なる。

人間である以上、コミュニティに属することは避けられない。

ならば、どうすればコミュニティ至上主義的な行動原理から逃れられるのか。

答えは単純で、リスク分散である。

つまり、できる限り多数のコミュニティに同時参加するのである。

どこかで爪弾きにされても、まだ他に居場所が残されている。

それは必ず精神的、行動的な安定につながる。

 

幸いにも、インターネットによって参加できるコミュニティの幅は広がった。

一人でも多くの人を孤立させないことは、社会全体としても重要な課題と思う。

なにしろ、孤立したヒトほど恐ろしいものはない。

それは、知能を持ったケモノに相違ないものだからだ。

 

誰もがいつでも誰かの肯定を、共感を、「いいね!」をもらえる。

どこかのコミュニティで失敗しても、セーフティーネットとして機能する。

SNSは、そのためのツールであるべきだ。