なるほどね。PART2

誰にともなく、近況報告など。

性善説と性悪説について

あなたはどちらだと思いますか。

 

僕は常々、人の性質は多層構造になっていると思っています。

一番下の層は、野生の動物と同じ、食うか食われるかの性質。

それが衣食住に困らなくなると、若干の人間性のある性質が上層に現れる。

後はその人の価値観によって、重要と思う物を得るたびに上層ができる。

そんな風に考えています。

マズローの欲求5段階説に通じるもので、決して新しい考えではありません。

 

もしそうだとすると、人の本性は善でしょうか、悪でしょうか。

恐らく、人を個として捉えるなら、善も悪も無いでしょう。

最下層の性質も、生きるためには必要なものです。

しかし、他人と接する場合には話が変わってきます。

生きるために身ぐるみを剥いで殺してやろうという人は善人じゃないですよね。

であるならば、本来の人の在り方は悪ということになる気がします。

最低限の衣食住や文化的な生活が保障されて初めて人は「人間」になる。

そう考えると、僕の立場は性悪説に近いように思われます。

 

ところで以上の考えでは、善人という存在は非常に不気味なものに思えます。

完全に欲求が満たされていて、もはや何にも執着していないわけです。

接している人や物のことを「何とも思っていない」状態です。

貶めたいとも思っていないけれど、もっと良く見られたいとも思っていない。

そんな人は恐らく現実には存在しないでしょう。

しかしこれは、「善人に見られたい」場合に応用が可能かもしれません。

 

たとえば接客の場合、「この野郎」と思う客には対応が悪くなります。

ところが、客のことを「何とも思っていない」状態ではどうでしょうか。

クレームを言われようが、何とも思っていないのでムッとすることがなく。

無理な要求に対しても、よく思われようとしないのでやんわり断る。

それも、淡々と行うことが出来るわけです。

相手を「何とも思わない」ように試みると善人っぽさが出せるかもしれません。

ただし、やりすぎると人間味が無くなってしまうので注意が必要です。

世に言う人間味は、普段より少し下層の性質をチラチラ見せる事だと思うので。

 

ところで、仏教では物事に執着すると苦しみが生じると説かれているそうです。

上記の何にも執着していない状態はもはや解脱していると言っていいでしょう。

良いですね・・・僕も早く解脱して仏になりたい・・・。

 

今日の一言

人の本性は、大切なものを失ったときに現れる。